第4回「オリンピックと裸」
関 隆志 大阪市立大学文学部教授
(アテネ考古学協会名誉会員・ドイツ国立考古学研究所会員)
ギリシア陶器、パルテノン神殿、オリュンピア遺跡等のギリシア・ローマ考古学専攻
国際オリンピック委員会は8月28日に理事会を開き、2008年夏季オリンピック開催都市として立候補していた10都市に対し第一次選考を行い、大阪市を北京やパリなど4都市とともに正式立候補都市として認定しました。またシドニーでの今世紀最後の夏季オリンピックも、さまざまなドラマとともに閉幕し、次の2004年のアテネ大会がまたれます。
ところで、今日と異なり古代のオリンピックは全裸で競技が行われました。現代スポーツは科学万能の時代で、例えば競泳では水の抵抗を最小限にするために企業間で水着の開発競争が行われていることは良く知られるところです。しかし、古代オリンピックには水泳は含まれていませんし、裸体で競技を行ったのは暑さのためでもなく、もちろん記録向上のためでもありませんでした。その理由は、宗教的、社会的慣習に基づいていたのです。
社会の特権階級に属し、日常生活の中でスポーツを楽しみ、オリンピック参加資格を有していた都市国家(ポリス)の男性市民にとって「裸」は特別の意味をもっていました。そして、神が倫理や道徳でなく力の支配者と考えられていた古代ギリシアの美術では、最高神ゼウスなど男神は通常全裸でその見事な体躯が誇示されました。ここに、古代ギリシア独特の裸に対する感覚を認めることができます。
既に述べたように、ゼウス、ヘラクレス等の男神・英雄の多くは全裸で表現されました。一方、アテナ、アルテミス等の女神は常に着衣で表現されました。紀元前4世紀にプラクシテレスが愛と美と豊饒の女神アプロディーテを全裸で表現するまで、女神の裸はタブーとして決して表現されることはありませんでした。神話の中で狩人のアクタイオンは処女神アルテミスの水浴中の裸身を盗み見たために、女神の怒りに触れて殺されてしまいます。
しかし、古代ギリシア人もわれわれと同じく、裸は基本的に恥ずかしいものと考えていました。例えば、市民の異性間の裸の表現は社会的に許されず、また、ホメロスの作品に見る限り、戦場における裸は弱者を意味していました。ただ、非市民階級の女性で歌舞音曲を良くし、男たちの酒席(シュンポシオン)に侍るヘタイラは、職業柄専ら性的対象と見なされ、酒席に使われる器の装飾として、その美しい姿が裸像で表されることが多かったのです。
以上の状態を表にまとめると下図のようになります。
オリンピック競技は、もともと下帯を締めて行われていたことが古い伝承から知られますが、遅くとも前6世紀までに全裸で行われるようになったのは確実で、その理由は上に見たとおり、男性市民に限り「裸」が男神・英雄と同様に誇るべき姿と認識され、互いに人格を認め合った男性市民同士の身体鍛錬の場であるパレストラと、その結果を競うオリンピック大会において競技は全裸で行われたのです。基本的に地球上の全ての男女に開かれている現代のオリンピックに対し、古代のオリンピックはギリシア都市国家において特権階級であった男性市民による、男性市民のための社会的に極めて限られた競技大会に過ぎなかったのです。
語句その他の解説
古代ギリシア美術に見る裸像表現(図1〜8)
(1)ゼウス像
古代オリンピックは最高神ゼウスに捧げられた祭典でしたが、家父長として力による支配の頂点に立つゼウス神は、鍛え上げられた体躯とあごひげのある壮年男子として、多くは裸体で表現されました(図1)。
アテネ国立考古学博物館 関隆志撮影
(2)アテナ・パルテノス像
ゼウスとメーティス(思慮)の間の娘で都市国家(ポリス)を守護し、戦を必ず勝利に導く女神でもあるアテナは、女神の常として着衣で表され、兜、盾、槍を携え、時に女神のシンボルであるフクロウや、勝利の女神ニケを手に表現されます。(図2)
アテネ国立考古学博物館 関隆志撮影
(3)ミロのヴィーナス
愛、美、豊饒の女神であるアプロディテ(図3)は、女神の中で唯一の例外として裸で表現されますが、それも長いギリシア美術史の中では終わりに近いヘレニズム時代が中心で、初めて裸像表現を行ったのは大理石像制作の第一人者プラクシテレスで、前4世紀後半のことでした。
パリ・ルーブル博物館 関隆志撮影
(4)アナヴィッソスのクロイソス墓碑像
前6世紀末に若くして戦死したアテナイの青年クロイソスの墓碑像(図4)に見るように、古代ギリシアの男性市民も男神や英雄と同じように全裸で表される事が多かったようです。また、例えばポリュクレイトス作の「勝利のリボンを結ぶ青年像」のローマ時代模作(図5)のように、勝利者も全裸で表されました。一方、女性像は色華やかに着衣で表現されるのを常としていました(図6)。
アテネ国立考古学博物館 関隆志撮影
(5)勝利のリボンを結ぶ青年像
(ローマ時代模作:原作はポリュクレイトス
作の青銅製 前420年頃) 高さ:1.86m
アテネ国立考古学博物館 関隆志撮影
(6)キオス島のコレー
アテネ国立考古学博物館 関隆志撮影
(7)ゼウス神殿東正面メトーペ浮彫(部分)
オリュンピアのゼウス神殿東正面メトーペ浮彫(図7)は、「ヘラクレスの為にヘスペリアの地から黄金のリンゴを運んでくるアトラス」が表現されています。向かって左端にヘラクレスを助けて左手で天球を支えるアテナ女神が示されていますが、女神が着衣であるのに対してヘラクレスもアトラスも全裸です。現代のわれわれと全く異なる「裸」に対する独特の感覚がここに認められます。
(8)座る拳闘家
激しい戦いを終えて一息つく全裸のボクサー像(図8)は、拳闘家の荒い息づかいが聞こえるような苦痛の表情を、ヘレニズム時代のリアリズム手法で残酷なまでに表現しています。
ローマ国立博物館 関隆志撮影





